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方向性としてはおおよそ期待通りであり、質としては期待以上だった。


冒頭、前回の直接の続きかと思いきや(後で実際にそうだとわかるのだが)、「叶うならば、もう一度あの日に戻りたい!」で、巻き戻り、エンディングが始まったのには心底驚いた。
常々、エンディングがロゴから始まるのが気になっていて、オープニングのつもりで制作していたのだろうかとまで思っていたが、実際にオープニングとして視聴すると、やはり曲調がオープニング的ではないと思う。
かといって、印象が悪いわけではない。演出としては効果的だった。毎回のエンディングは、毎回の「私」の後悔が無駄であること、何度やり直しても何を選んでも同じような四畳半世界のままであること、「囚われている」という強い感覚を私たちに抱かせるものである。前回は文字通りに囚われてしまったので、エンディングで「囚われている」という感覚は最高潮に達した。しかし、1週間経つ間にその感覚はどうしても弱まってしまう。その弱まった感覚をもう一度ピークに持ってこさせる、よい演出だ、と思った。オープニング映像も「囚われ感覚」を喚起するものであるが(後述)、実際に四畳半世界に独り閉じ込められているので、四畳半の外の世界が描かれず、それどころかキャラクターすら1人として登場しない、エンディングの方が、より効果的だろう。

通常のオープニングよりもクレジットが読みやすかったのも良かった。通常のオープニングは文字の移ろいが速すぎて私の動体視力ではどうにもならなかったのだ。「この後、本編が始まります」と出していたのも、面白くもあり、わかりやすくもあった。これがなければ、本編で寝落ちしていたのか!?という不安を抱きかねない。


前回と今回の内容が、私の中で混乱しているのだが、ご容赦いただきたい。

独りカステラを乱暴に貪り食い、涙するのは今回だったか。
「大きなカステラを1人で食うことほど寂しいことはありませんからね」うろ覚えだが、第1話(多分)での小津のセリフである。

小津をはじめ、樋口師匠、城ヶ崎、顔舐め羽貫さん、「どうしてあんたにそんなこと教えなきゃならないの」「これはモチグマンといって…」「先輩は阿呆です」の明石さん、思えば、程度の差こそあれ、まともな登場人物は1人としていない。この濃ゆい人々の影を、「私」は四畳半世界に見ていく。これだけ濃い人々なら、四畳半の中の情報だけからでも、あれだけ詳細にわかってもいいのかも知れない。ただ、「私」がいかにも日記などをつけていそうな性格に見えるから、今までの回で日記を書くシーンを出すなりして伏線を張っておいた方が良かった。

(つづく)
小津と、出会ってすらいない…!?
樋口の階下に住んでいる限り、どの選択をしても小津からは逃れられないと思っていたのだが…
いつも自分の現状を小津のせいにしていたけれども、小津から逃げても、小津から逃げるということは、人と関わらないということに近似するから、結局薔薇色のキャンパスライフどころか、「それなりのキャンパスライフ」を送ることもできない、ということか。

エンドクレジットで、キャストは浅沼さんただ一人。老婆が声真似なのは勿論わかったが、小津は本人だと思っていた。しかし公式ブログを信じるなら完全に一人のようだ。再度観てみると、うむ、僅かに上ずっているか?

「夜は短し歩けよ乙女」のカバーが登場したらしいのだが、2度観ても私は確認できなかった。押し入れ下段の本の山の一番上だろうか。

画について。
これはやはり「監督らしい」作風なのだろうか。監督の作品は見たことがないのでよく知らないが、実写を使うとか聞いたような記憶がある。
好きなOP映像がそのまま本編に登場したような感じで、はじめは驚いたがよかったと思う。

何より驚いたのは、結局閉じ込められたまま、どのサークルも選ばなかった「私」の話が終わってしまったことだ(次回が直接の続きになるのかも知れないが)。この10話の間、一度も「私」は救われなかった(一回だけ見ていないが)。
森見登美彦氏の第2子「四畳半神話大系」は、発表されるや否や、「主人公に彼女ができるなんて許せない!」と、「『太陽の塔』ファンダメンタリスト」たちが激しく糾弾したとか。
逆に、「四畳半神話大系」は、主人公に彼女ができ、それでもなお小津を恨む話である。最後には悪友でも唯一の友である小津の大切さに気づく話である。
放送時刻変更のお知らせで最終話のタイトルが「四畳半紀の終わり」とわかった。各世界の「私」がそれなりに幸せになる展開を希望する。原作通りとは言わない。何か、救いがあることを私は望む。ルサンチマンから救われてこそ、「四畳半神話大系」である。
(続き)

「感想1」で「不可能性」に注目したのは、確かに文庫版解説に影響されたが、より踏み込んだと自負している。正しく踏み込んだかはわからないが。


今回初めて地デジで、それなりの大きさの画面で観た。今までは古式ゆかしきブラウン管テレビで観ていたが不調につき買い換えたのだ。
OPからして既に画質の良さ・迫力に驚いていたのだが、今回の本編はダイナミックな場面が特に多く、3Dではないのに飛び出してすら見えて、とても良かった。
今回は母と観ていたのだが、小津が小日向さんと手を取り合って落ちるシーンで、
母「あっ!」
羽「ダメだよ! それはダメだよ!」
となりました。明らかに「千尋」。有名作品だし、ここまで明らかならシャレになるのか?


「福猫飯店店長」というのは、アニメオリジナルのポストかと思う。わかりやすくなった。


第1話や「ほんわか」の回などで小津が相島から追われていた理由は今回明かされた。城ヶ崎に追われていたのは、アニメでは香織さんを恐らく盗んでいない以上、あの告発映画のせいだろう。
何よりほんわか襲撃の理由もわかって、疑問はほとんど解消されたように思う。



次回(放送されたが)で、小津が大切な友人であったと思い知るのだろう。
せめて最終回では明石さんと結ばれて欲しいものである。
最近ケータイからの投稿が不調なようで、同じ記事が2つになっていたり、件名にスペースが入り込んだりすることがあります。

今しがた発見した二重表示は是正しましたが、他は暇を見て。

あ~原作でもヴォルフそうなっちゃうのねぇ…


コンラッド、そこまで味方として振る舞うなら、本当の意味で帰ってきなさい。


キーナンはアニメとの違いに驚きますよね。
まあ、原作ではサラに偽装されたユーリに偽装してしまったヴォルフを射ていますからね…
今回は、予想していたよりも重要な回だった。

私は、「四畳半神話大系」をSFだと考えている。並行世界というSF的ギミックを用いているから、というだけの理由ではない。SF的道具立ては十分条件ではないのだ。
原作で、樋口師匠のセリフに「可能性という言葉を無限定に使ってはならない。我々を規定するのは、我々の持つ可能性ではなく、我々の持つ不可能性だ」(引用不正確。後に訂正予定)というものがある。登美彦氏が並行世界を使って描いたのは、どんな選択をしても自分が自分である限り、大した違いはない、もっと現実を受け容れた上で、見方を変えるなりして幸せになろう、ということが大きな一角であろう。このセリフに、この作品の真のSF性が凝縮されている。
今回、これに対応する樋口師匠のセリフがあった。「不可能性」という言葉が使われたかどうかは確認できず、その点、はっきり言って欲しかったので残念だが、おおよそ同じ内容だった。つまり、テーマの根幹をなすシーンが今回あったということだ。

原作では明石さんと結ばれても、そのサークルを選んだこと、小津と出会ったことの後悔の念が拭いきれないのに、アニメ版では全く良い目を見ず、後悔しかなかった。しかも前回では明石さんにまで騙され(諸事情により見ていないので、トンチンカンかもしれない)…
「並行」よりも「繰り返し」の感覚が強いアニメ版であるから、自転車にこやか整理軍総長として、今までの鬱憤を晴らすかの様に悪に走るのも、わかる気がする。
我が世の春を謳歌する「私」。しかし、何かが違う。薔薇色のキャンパスライフとはこんなものだったのか…?明石さんの飛行機を盗む代わりに、大切なものを喪ったのではないか?
そんな状態の時に、人の不幸をネタに飯を喰らい、私の足を引っ張り、悪事の限りを尽くしていた小津が、実はキャンパスライフを謳歌し、しかも純愛に殉じて全てを失おうとしている…
唯一の友人の手酷い裏切り――いや、小津は裏切ったつもりはないのかもしれない。しかし、落下転落しながら彼女の手をとる小津の姿は、私の心を酷く傷つけた。

今回のラストは時計台の逆回しではなく、四畳半が「私」を閉じ込める様子だったことにお気づきだろう。「私」はこのまま引きこもり、その負のエネルギーで四畳半を「出たくとも出られない」状態(一応ボカしておく)になってしまうのではないだろうか、と私は予想する。
そういえば「ほんわか」の回でヒゲの男に遭遇したのは、小津がほんわかを襲撃した夜だった…今、公式サイトを確かめたら、次回は、「私」がどのサークルにも入らなかった世界の話らしい。うーむ、今まで私が述べたことは一体…?

続きがあるが、とりあえず一旦ここまで投稿する。追記にするか、別記事を立てるかは検討中だ。
先日、我が家のテレビが壊れまして、新しく何を買おうか迷ったのですが、
ハンチョウが好きなのでビエラにしました。

繰り返します。
ハンチョウが好きなのでビエラを買いました。

ハンチョウとビエラと言えば切っても切り離せない仲ですからね(cf.第1シリーズ第1話)。

ハンチョウ4以降もよろしくお願いいたします。

読後第一印象は「ジュブナイルSFの傑作」。やっぱり森見登美彦はSF作家ですな(※私の「SF」概念がかなり広いことは自覚しています。普通ならファンタジーに分類するのかな)。
でも、あれだけ「○っ○い」と連呼(セクシュアルハラスメント防止等の観点から伏せ字でお送りしております)している作品を、子どもに読ませたいかどうかは疑問の余地があります。まあ、ジュブナイルって子どもに「読ませたい」ものとは限らないわけですが。

よく考えるとSFでもジュブナイルでもないのかもしれませんが、森見登美彦氏の新境地であることは間違いないでしょう。
インタビューなどを見ると、作風の変化を読者が受け入れるか、氏はかなり恐れていたようです。
読み始めた時は、「言うほどいつもと変わらないなぁ」と思ったのですが、いつしか透明感が増していき、SFと少年期(大学生とは異なる)とのそれぞれに特有の「苦み」が現れてきました。

何かの書評で「2番目のデビュー作のよう」とありましたが、まさにそんな感じ。



ラストは、時をかける少女(アニメ)を思い出しました。
授業前に大教室で読んでいたのですが、教室の片隅で泣いてしまいました。


あと、なぜか全体的に「夏への扉」を彷彿とさせました。別にジュブナイルではないので上記に反しますが…ストーリーも特に似ていないのに…なんでだろう?


今年のマイベスト候補。傑作です。モリミー初読者にもおすすめ。


私たちの日常にも、「世界の果て」は潜んでいる。
テレビが壊れたため予約録画ができず、他の手段で我が家でも技術的に可能なものもあったが家族の理解が得られず、第8話は視聴できなかった。
動画投稿サイトとの絶縁を宣言しているので、第8話視聴はDVD(4巻?)リリースを待つ所存である。

そういう訳で、今週は、いつかやると宣言していたOP・ED感想を述べる。

などと言っている間に第9話が放送されたが。

<OP>
映像と曲がよくあっていて、効果的である。
映像も、ネタバレの感は否めないものの、「四畳半神話大系」の中核である「八十日間~」をモチーフにして、並行世界を暗示していて、少なくとも原作読者には楽しい。
様々なキャラクタービジュアルが楽しめるのもよい。
普通の感覚から、尋常でなく濃いこのアニメの雰囲気への橋渡しの役割も果たしているだろう。

曲に関しては…単なる個人的好みの問題だが、当初、あまり好きではなかった。最近は慣れたからか幾分愛着を感じるようになった。
PVでの「私」のような格好や狐面が、モリミファンとして嬉しい。


相変わらず歌詞は殆んど聞き取れない。歌詞出してくれ。
サビの「ボクタチノゲンザイヲクリカエスコトナラ(ナク?)」の「ゲンザイ」は、アニメ四畳半神話大系のOPであることを考えれば、「現在」なのだろうが、あの音型だと「原罪」に聞こえる。「原罪を繰り返す」。なにやらロックっぽくはござらんか。ござらんな。


<ED>
これも、映像が好きだ。無限に広がる間取りが結局四畳半に収束する、というのが「四畳半神話大系」をよく表している。
曲との連動もよい。
曲は…雰囲気はEDらしく、その点好感が持てるのだが、雰囲気以前に恐らく「ジャンル」として好みでない。相変わらず個人的好みを語り、申し訳ない。言語化すると…機械じゃないんだから、そんなにブツブツ切らず、レガートになるような音型にすれば良いのに、といったところか。
珍しく歌詞をかなり聞き取れる点はありがたいが、そのため、歌詞が話の内容とどうも合っていないと気になるようになってしまった。別に綺麗な対応は固より期待していない。歌詞の雰囲気とアニメ本編の雰囲気とがある程度以上合っていればよいのだ。

OPと同じ回数聞いた筈だが、こちらは「慣れ」以上の段階には中々進まない。

繰り返すが、個人的好みを表明しているだけなので、あまりお気になさらぬよう。
和装アイドル集団
AKO47

どうです、総にょたで。あ、でも格好は基本的に討入りの格好ですよ。どなたか描いてませんかね~
いや、別に、にょたじゃなくていいですが。イケメン(まげメン?)集団でも中々よい。
どちらにせよ2次元ですよ。


何か、変なことばっかり思いつきます。インフルの間家族とすらほとんど接触しなかったので、寂しさのあまりどっかがイカれたのかも。
「新型インフルエンザの流行は収束しつつあるなんて言ったのは誰だ」(シャレです)
…アホなことばかり思い付くのは逃避ですね。頑張ろう。

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