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小津の顔!
アニメ化の一報を知り、直ぐに公式サイトを確認した際の、キャラクター原案段階の小津の顔と、実際のキャラクターデザインの顔とがかなり異なることは、以前から気になっていた。
今回の小津の顔は原案(OPでも登場)に近かった気がする。中間くらいだろうか。小津の人間離れした顔は「私」の主観であるという説明を何かで読んだ。先入観のない目で見た、真の顔が、あれなのだろうか。小津を人間らしく描くとああなるのだろうが、かなり印象が違う。
(私の知り合いに似ているが、そう言っても多分彼は喜ぶまい)
決して美男ではないが純情そうな顔をしている「彼女の前ではいい子でいる」小津の顔が初めて登場したのは小津のスマートフォンだ。原作と比較して時代の変化を感じる。しかし考えてみると、小津はいかにもスマートフォンを持っていそうだ。


他のどの世界でも、小津が唯一の友人であることに気づいた「私」は、小津の悪質さに気づきながらも、小津に肩入れしていくが、これはやはり実際には小津を知らないのが良かったのかもしれない。そうだとすれば、四畳半主義者の「私」が小津を知らないという設定も納得できる。


「私」が小津の名を叫びながら走るシーン。走っている間に「私」の格好がどんどん以前の回のものに切り替わっていく。ここで、「四畳半主義者」以外の世界の「私」も救済されたような気がして、涙が零れそうになった。
しかし、同時に、「四畳半神話大系は泣くような話ではない」、そんな気がしていた。
そこへ来て、ハダカである。無意味なハダカ。感動は一気に背景に退いてしまった。
これがまさに絶妙な塩梅で、「四畳半神話大系」として丁度よい感動具合だった。「四畳半神話大系」は恥じらいの文学。正面切って泣かせるようなものではないのだ。

まあ、見ず知らずのすっぱの男に抱きつかれた小津の心中は…御愁傷様、ということで。

ラストは、「私」と小津との役割の交錯がわかりやすく表現されていた。

◆◇◆

オープニング映像冒頭は、初回放送から、四畳半世界に閉じ込められることを暗示しており、白黒と相まって、閉塞感をよく演出していた。曲の雰囲気も合っていた。

私は以前、四畳半神話大系における「不可能性」という概念の重要性に言及した。

しかし、今回この最終回の最後に流れたオープニングは、曲も、映像も同じなのにもかかわらず、いつもの閉塞感が逆転して、「無限に広がる可能性」といった明るさを感じさせた。私たちの一つひとつの選択から無数の世界が生まれ、どこでもそれなりに幸せである。
樋口師匠が「不可能性」について語ったことは、裏から言えばこういうことなのではないか。

クルクル回転するキャラクター画像のところなどで、「さようなら」とか「またいつか」などの文字が混じっていた遊びも楽しかった。
当初はこれほど名残惜しくなるとは思わなかった。
さようなら、また会う日まで。
今度は「有頂天家族」を希望する。
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アクセス解析はともかく、地球へ…ブログパーツの終了は本当に寂しい。
テラと私を繋ぐよすがが、また一つ消えてしまいました・・・。

未分類記事の分類、読了本の追加などはまた今度。

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